絵島⑥ ~ 「絵島生島事件」その後

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いまも昔もヒトの考えることって実はあんまり変わらない。
日本舞踊のストーリーを読み解いて、そこに登場するキャラクターたちの現代にも通じる想いを
お伝えしていきたいと思います。
もしかしたら、あなたの悩みを解決するヒントがみつかるかも…

様々な思惑や陰謀が見え隠れした「絵島生島事件」でしたが、その後事件の登場人物たちはどうなったの
でしょう。
今回は、事件のその後のお話をしようと思います。

|事件の後

事件からわずか2年後、7代将軍徳川家継は8歳の若さで亡くなります。色々な思惑で起きた「絵島生島事件」
の裏側で
暗躍した人々、そして被害者ともいえる絵島と生島はどうなったのでしょう。

|幕臣たち

事件後、月光院の代わりに大奥の実権を握ったのは、天英院でした。そして、その天英院の推挙もあり、
7代将軍徳川家継の次に将軍になったのは、
紀州藩主(現在の和歌山県と三重県南部)の徳川吉宗でした。
8代将軍になった吉宗は、新たな政治政策に取り組むため、幕府の人員を刷新しました。その結果、間部詮房や
新井白石はもちろん、土屋政直、井上正岑らの旧勢力も政治の表舞台から姿を消しました。

|月光院

1716年に7代将軍徳川家継が風邪をこじらせて亡くなりました。これは、月光院がこのとき風邪をひいていた
家継を無理やり能楽鑑賞させたためともいわれています。そして、8代将軍徳川
吉宗の頃になると、月光院は
大奥を離れて、江戸城内にある吹上御殿に移り、約4億円もの年収を得て暮らしていたといいます。吉宗が
1745年に引退の動きを見せたときは、9代将軍に田安宗武を推すなどして晩年にも影響力を行使しようとした
ともいわれています。

|天英院

事件の前後、天英院は月光院と仲が悪かったといわれていますが、実際には、当人たちではなくお付きの
奥女中たちが対立していたとされています。息子の7代将軍徳川家継が危篤状態になって嘆き悲しんでいた
月光院を励ましたのは天英院だったと言われています。家継が亡くなった後、紀州藩主だった徳川吉宗を
第8代将軍に迎えるのに尽力したと言われ、その後は吉宗から毎年約5億5000万円と米1000俵を賜っていま
した。また、吉宗には正室がいなかったので、将軍家の女性筆頭として大奥で権勢を振るい、幕府における
発言力も大きかったといわれています。

|絵島

月光院の尽力で減刑されて、高遠藩のお預かりとなっていた絵島は、当初は高遠城から離れた村に幽閉されて
いました。そして、8代将軍徳川吉宗の頃になると、高遠城の三の丸に作られた囲み屋敷に移されました。
それは、忍び返し付きの2m以上の高さの外壁で囲まれていて、格子戸ははめ殺しで開閉できないものでした。
隣接する詰所には、24時間番人が配置されていて、外部の人と接触することは一切許されませんでした。
かつての大奥暮らしとは全くかけ離れた不便な生活で、最低限の衣食住だけが確保されていました。衣服は
粗末な木綿のみで、お酒やお菓子などの嗜好品、手紙や読書も禁止されていて、面会や外出も許されないという
とても孤独な毎日を送ったといいます。晩年になってやっと恩赦が出され、高遠城内は寺社の参詣などある
程度の自由が与えられましたが、1741年に病気で亡くなるまで、事件から27年もの間このような環境で生活
しました。そんなつらい生活の中でも絵島は大奥の話は一切口にせず、静かに過ごしたといわれています。
大奥の威厳を最後まで保とうとした奥女中のプライドと誇りが感じられます。絵島は、生前通っていた高遠町、
日蓮宗蓮華寺に埋葬されています。

|生島

一方、三宅島に流罪となった生島は、潮騒の音しか聞こえない江戸の喧噪とはかけ離れた裏寂しい生活を送って
いました。絵島が亡くなったことをきかっけに、その
翌年許されて江戸に戻りますが、その1年後に亡くなって
います。もし生島がこの事件に巻き込まれることがなかったら、日本の演劇の歴史は今とは違っていたかもしれ
ません。
1913年に初演された長谷川時雨作の歌舞伎舞踊「江島生島」は、三宅島に流罪となった生島が江島との逢瀬が
忘れられず半狂乱となり、浜辺に訪れた海女を江島と錯覚し恋焦がれ後を追いかけていくという、痛ましい生島
のお話です。6代目尾上菊五郎が練り上げた舞踊劇で、前半の奥ゆかしい奥女中と後半の海女の二役を早変わり
で魅せる演出になっています。

*諸説あり、三宅島で亡くなったともいわれており、三宅島にはお墓もあります。

|二代目團十郎

二代目市川團十郎は、生島の後見で和事も取り入れた新しい荒事芸を創始し、「助六」「矢の根」「毛抜」など
後の歌舞伎十八番となる、お家芸を確立しました。そして、事件から7年後には1000両(約1億3000万円)の
お給料が与えられる「千両役者」となります。事件当時、実は絵島の贔屓は二代目團十郎で、身の回りのものは
全て絵島が贈っていたという噂があります。実際、持ち物のなかに高貴な人物が使う「杏葉牡丹」の紋が入った
小袖が見つかり、嫌疑がかかっています。ところが、評定所に團十郎の替紋と認められたとか、絵島が團十郎は
自分からの贈り物を受け取らなかったと主張したとかでお咎めなしになっています。二代目團十郎は絵島との
ことがこのままエスカレートすると不味いと思って身を引いたとか生島は二代目團十郎を庇って身代わりに
なったという話もあります。今となっては真相のほどはわかりませんが、この二代目團十郎の時期に確立された
「助六」の出の場面で助六は2度お辞儀をします。1度目は、歌詞「ゆかりの人の御贔屓の~」で絵島への感謝
を表し、2度目がその日観劇しているお客様に対してといわれています。そして、事件から300年以上経った
いまでも助六は2度お辞儀をして、絵島への感謝の気持ちを示しています。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/505470
文化遺産オンラインより 奥村正信作 漆絵「二代目市川海老蔵の助六」

|最後に

いかがでしたか。真実のほどはわかりませんが、もし当時絵島の御贔屓が二代目團十郎で、絵島は最愛の人を、
後見人だった生島は若い才能を守ったのだとしたら、そしてその想いを二代目團十郎が引き受けたとしたら…
と考えると不本意な運命の渦に巻き込まれながらも守るべきものを最後まで守り通した人たちの思いの強さを、
そして信念の強さを感じずにはいられません。
歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」については、またの機会にお話しようと思います。

 

 

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